久しぶりの投稿です。毎年、年が明けると「ああ、blog、更新してない……」と悲しい気持ちになります。
でも今年こそ(毎年言ってる)自分のための文章を綴っていけたらなと思います。
誰かに見せてもいいと思える形で書くことはなかなか一番ハードルが高い、けど、それをしてこを、自分自身も客観的になるのかなあと思っています。
だから今年はそれをするぞ。(つまりblogやnote.を更新するぞ)
さて、今日は、「小さな声を体を通して聞く」ことについて書きたいと思います。
私はライターですが、お仕事で「かぞくかいぎ」を実践と、講座やワークショップを通じて、子どもたちの声を聞くことがあります。
まだしっかりと形になっていないような、
ぽつりぽつりと溢れてくる言葉が、どんなにおもしろいか。
いつも心が震えます。
そんなことについて人前で話する機会をもらったりもしているのですが、
先日「ああ、いちばん大事な子の話を聞いていなかった」と気づきました。
昨年5月に父を亡くし、悲しいのか疲れたのか、一区切りついたことに
どこかほっとしたのか、なんだかぼんやりとして、
それなりに楽しく過ごしてきたと思っていた2022年の終わりが見えてきた頃、どうにもこうにも体調が悪く、気持ちの面でも、底辺から抜け出せない状態が続くようになりました。
ときどきマッサージを受けたり、体を動かす教室に通ったり、ママ友と「てくてくの会」(おしゃべりしながらひたすらウォーキング&お茶をする)を続けては、その都度ある程度元気になるのだけど、
どうにもこうにも、お腹から湧き出る力が足りないのです。
空洞があるみたいに、すぐにしゅんとしてしまう。
同時に、思うように動けない自分を、責める気持ちもありました。
***
そんなある日、ひょんなことから友人に紹介してもらった人のボディワークを受けました。
Compassionate Inquiry(こんパッショネイト・インクワイアリ)というセッションで、中毒とトラウマについて詳しいカナダ人作家・医師のガボール・マテ博士が開発した心理療法のひとつ(らしいです。私は肩こりとこの鬱々した気持ちが治ればいいという気持ちで受け始めましたが……)で、書籍もあり、邦訳されています。
TED x talksもあります。↓
私がセッションを受けたのは、マテ博士からではもちろんなく、この治療法を学んだ方からです。セッションはまだ続くのでまだ「結果」がはっきりしたというわけじゃないのですが、
1回目に受けた後に、少し、というか、大きな変化がありました。
セッション自体は、感情や過去に起きた出来事を話しながら、「現在の体」に起きている反応を探求してみるというもの。
過去に何かあったことや、今不安に思うことなどを話した後、その、話しているときに体にどんな反応が起こるかを探究心をもって探っていく、というワークです。
「こういうの、結構好き」な私は、ある月曜日の午前中、
仕事を一旦置いて、ワクワクとそのワークを(ダジャレじゃないよ)受けていました。
先生「体の具合はどう?」
私「肩こりがありますねぇ」
先生「最近あったことは?」
私「実は、なかなかやる気が出なくって、自分はダメだなあと思ってしまうんですよね」
とか。結構軽やかに話しながらも、体の内側に怒っていることに目を向けていると
その時に、ふともう30年以上忘れていた感覚が蘇ってきたのです。
それは、当時、「やっちゃん」と呼ばれていた小さな私が、していたこと。
母親に叱られるたびに、ぎゅっと体を縮こませ、膝を思い切りロックし、
膣だか子宮だかを痙攣させるかのように下半身に力を入れて体を震わせる、というものです。
もう何のことで叱られていたかも、覚えていないくらい些細なことです。
何か良くないことをして怒られているんだけど、
心の中には、いろんな声にならない声が渦巻きます。
「いや、そうじゃなくて、そういうつもりじゃなかったの」
「お母さん、怒らないで、悲しい」
「本当の気持ちをわかってもらえなくて、悔しい」
「とにかく、失敗をしちゃった時に、戻ってやり直したい」
「そもそもなんであんなことしちゃったんだろう」
「お母さんをガッカリさせて、ほんと悲しい」
「私ってなんてダメなんだろう」
「私が嫌い」「いなくなればいいのに」
そんな声がぐるぐると渦巻くと、視界が狭く、暗くなっていきます。
そして、自分に罰を与えるように、ロックした膝と膣で感情を外に出さないように
体をブロックしていました。
その時に感じた身体の痛みや、心の空虚さを、
ボディワークをしているときに、私は突然思い出したのです。
「うわ、こりゃ〜大変だ」と私(大人になった私)は思いました。
本当にすっかり忘れていたことなのです。
幼いやっちゃんを、叱っていた母を責めるつもりも、今や一切ないのです。
自分が母親になれば、幼い子どものあれこれに振り回され、駆け回り、
子育てと家事の一切を担い、奮闘していた彼女が、時々強く子供を叱ってしまうことがあってもそりゃあ、仕方ないよな、と思います。
母は普段は優しかったし、いつも美味しいご飯を作ってくれたし、
家の中にグリーンを飾って、
安心の場所を作ってくれていました。
ただ、時々、とても疲れていあのです。
あの頃の母の肩をだき、「わかるよ〜。ほんましんどいよね。ちょっと休んでね」と言ってあげたい。
あの頃の母にもなでなでしてあげたい気持ちでいっぱいなのです。
ただ、それとこれとは別として、あの時泣いていたやっちゃんを、私は見過ごしてきた。
あんなに体を硬くして、一人立ちすくんでいたやっちゃんを、忘れてしまっていた。
それが問題なんだなと気付かされたのでした。
「やっちゃん、大変だったねぇ」「しんどかったねぇ」「やっちゃんはそんな悪いことはしてへんかったよ〜」「いっつも一生懸命頑張ってたもんなぁ」「忘れててごめんね」
そうやって声をかけながら、膣の下でうずくまって泣いているやっちゃんを、
私の最愛の娘が心を痛めて泣いているかのように、なでなでしました。母の分まで、なでなで、しました。
ボディワークの先生が「嫌じゃなかったらその感情に優しくしてあげて」と言ってくれるより前に、もう身体が(いや、心?)が、そっとやっちゃんに寄り添っていました。
やっちゃんは、少しだけ、嬉しそうな、ぼんやりと、そんな感じがしました。
***
いやはや、めっちゃスピっぽい話ですみません。元々は肩こりをなんとかしたくてうけたボディワークだったのです。でもボディはどうしたって心につながっていて、心も体も、どうしたって魂に繋がっているのだから、この一連の動きは、私にとって、ものすごく腑に落ちるものでした。(もう少し続きます)
***
後日、気持ちの良い晴れた日に、
カフェの窓際の席に座って、仕事をしようとパソコンを開き、
でもあまりにいいお天気だったので、キラキラとしかる木漏れ日を眺めていました。
そして、ふと、私はやっちゃんに話しかけてみました。そして会話をしてみました。
(ますます怪しくなっていってすみません)
「やっちゃん、いる? そこにおる?」
そう問いかけるような気持ちで、ボディワークをした時のように、
自分の体の内側にある、「ような気がする」何かに話しかけました。
すると、どこからともなく、「うん、おるよ〜」と小さく答えるやっちゃんが、いた。
気がする。気がするのです。
「なんか風邪をひいた気がする」「なんか今日のご飯はカレーな気がする」そんなと同じように「やっちゃんがいる」「気がする」のです。心の中に、白いワンピースを着て小さく固まってる私の写真が見えてきます。子宮のあたりに、暗い中にいる、気がします。
だから彼女に聞いてみたのです。
👩「子供の時されて嫌だったことは何?」
「かぞくかいぎ」で子どもたちにファシリテーションをする時と同じように、
小さな小さな声に、そっと耳を傾けるのです。
過去の自分か、知らない誰かのお子さんかは、関係なく、耳を傾ける。
やっちゃんは、答えました。(そんな気がしました)
👼「誰かの悲しい気持ちを受け止めること。騒がしすぎること。怖い口調でイライラされること。ガッカリされること」
私は急いで、PCのメモ帳を開き、考える隙間を与えず、彼女に質問を続けて、答えを無意識に書き込んでみました。
👩「ガッカリされた時どんな気持ちだった?
👼「自分が行けなかったんダァ、と思って、悲しくなる。申し訳なくなる。消えてしまいたくなるよ。やっちゃんのせいかなあと思うから」
👩「やっちゃんのせいじゃないよ」
👼「ありがとう。でもそう思ってしまったよ。イライラをなくしてあげたいなと思うよ。でも、どうしてあげたらいいかわらかないの。のんびりしてほしいなって思うよ」
👩「そっかぁ、私も自分がダメだなって思う時あるよ。自分を好きになるの難しいね」
👼「そうだね。あのね、やっちゃん、言われたことをやっているだけではダメなんだよ。どういう時に、自分が気持ちがいいか見つけて、その通りにしていいんだよ。光が木に当たっているのを眺めて気持ちがいいなら、しばらく眺めてみて。ときどきやっちゃんを抱きしめて、いいこいい子してね。カラフルな子どもみたいな洋服を時々着てみてね。家にずっといたらだめだよ〜」
と、やっちゃんは、突然スラスラスラ〜、と今の私を励ましてくれたのです。
ええ〜、やっちゃん、ありがとう!と、調子に乗った私は、
・不安な時ってどうしたらいい?
・お金をもっと稼がないと不安に苛まれるんですけど。
・お仕事がうまくいかないときはどうしたらいい?
・家族ともっと仲良くするにはどうしたらいい?
みたいなことを、聞いてみました。キーボードにのせた指は、ほぼ自動的に(と言うか、私が頭を捻って考えていなくても)。スラスラと動きます。
あ、これは知っている。原稿がスラスラとかけて、出来上がりを読んで「へぇ!こんなこと書いてたんだ!」と自分で驚く時のやつと同じ。
窓からキラキラ見える木漏れ日に向かって、ぼんやりと私はやっちゃんに尋ね、
頭で考えるより前に浮かんでくるものに追いつくかのように、ノートパソコンに向かって指を動かし続けました。
やっちゃんは、それはスラスラと質問に答えてくれるものだから、
驚いている間もないほどに、いろんな解決策を提案してくれて、
今の私を温かく励ましてくれて、応援してくれて、
わからないことは「わからないけど、今できることはこれだよ〜」って教えてくれました。
いや、怪しい、と思うでしょうか。
でも、これは全く怪しいことではないんだなぁと、私は思うのです。
自分で自分の問いに答えながら、その答えはとても純粋で
簡単にいますぐ私にもできるだろうという優しいものなのでした。
幼いやっちゃんが持っていた体の感覚は、今も私の身体に深く眠っている。
その時に彼女が落としていった激しい感情も、忘れたようでいて今の私の心と体と頭の中に眠っている。
それをそっと、優しく取り出して、勇気をもらったり、慰めたりすることは
今の私をもっと柔らかく、強くしてくれることにつながるのだと、嬉しい気持ちになったのです。
こういうことを私たちは、つい忘れてしまうんだなぁと思います。
現実に追われて、やらなくちゃいけないことに追われて、
本当はサボりたくても頑張ったり、逆に頑張れなかったことで自分を責めたり。
誰かに優しくしすぎて、自分に優しくするのを後回しにしたり。
大切な誰かに優しくする方法を忘れてしまって、自分のことも傷つけたり。
そうこうしているうちに、一体自分が何をしたかったのか、
どこに向かっていきたかったのかさえ見えなくなってしまう。
それは苦しいことです。
幼いやっちゃんが、体が痛くなるほどにぎゅっと堪えていたものを
43歳(もうすぐ44歳)のやっちゃんが、少しずつ癒してあげるのか、
今の私の苦しさを、幼いやっちゃんが癒してくれるのか、
それは、両方続けていかなくちゃいけないものなんだな、とも感じています。
多分きっと誰の中にも、こうした、忘れ(かけ)ていたけれど、
ふと思い出すような、記憶が、頭の中だけじゃなくて、心とか、身体にも眠っているのだろうな、と思うのです。
そんなものはない、幸福しか思い出せないという人は、それはとても素晴らしくて、
そのキラキラした人生を使って幸福を誰かに分けてあげられることがあったらいいですよね。
でも大なり小なり、人生は大変だから、自分をいたわりながら
小さな声に耳を傾けることを、続けていきたいと思っています。