1・17のあとで高層ビルに上って父と話したこと

今年も今日がやってきた。
1月17日の朝、目が覚めると、ぼんやりとあの日の朝を思いだす。

あれからいくつも地震はあったし、
恐ろしい事件や事故は、いくつもいくつもあった。
そういう大事件に巻き込まれなくても、
大切な人が何人も、ふっと気づくまもなく、この世界から消えてしまった。

あの日だけが特別なわけではないとわかっていても、
まだ中学生だった私は、あの日をなんとか生き延びて、今もこうして生き延びて、
だからやっぱり思い出して、ひとり黙とうをする。

さて、「家族と話した日」について少しずつ書いていく。
家族と話すのって難しい。
生まれ育ったうちは仲が良い家族だったと思うけど、
じっくりとあれこれ親子で、またはきょうだいで話し合うことってなかった。

「たわいの無い話」はたくさんしたはずなのに、
気持ちを出したり、本当の心の真の部分に触れるような会話は
思い返せば、ほとんどしてなかった気がする。

家族の距離感を壊すのが、きっと怖かったのだろうと、今、思う。

1996年の1月17日のあと、しばらく、私は恐怖で動けなくなくなった。
激震地に、住んでいたマンションはあって、そのとき死を予感しながらも生きることができて、
だけど壊滅状態の町をみながら、ただ居間の真ん中に座っていた。

家族のそばを離れるのが怖かった。

父はマンションの住民に物資を届けるなどの活動をしながら、
情報を集め、ガス爆発が近くで起こるかもしれないと言われ、住民を離れた学校施設に誘導していた。
中学3年生になっていた私も、何か役立つことができたはずだ。

でも動くことができなかった。

父は忙しそうに、家とマンションのボランティアの集まりを往復していたが、
私が情けなく動けなくなっていることを責めたりもしなかった。

一段落ついたとき、父は「ちょっと散歩でもいこか」と言ってくれた。

私はゆっくりと立ち上がって家を出て、隣に立っている、高層マンションに入っていく父の後を追った。

「ここのマンション勝手に入っていいの?」と聞くと
「誰かについて入ったらばれへん」と父は言う。

住民とおぼしき人について、高層マンションに入ってエレベーターで38階についた。

このマンションと、私たち家族が当時住んでいたマンションは、両方40階だてで、
当時ツインタワーのように町にえらそうにそびえ立っていた。

ビルごと折れるんじゃないかというくらいに、激しく音を立てながら揺れたが、
耐震構造のおかげで最終的には折れることはなく
私たちは命びろいした。

黙ってとなりの高層マンションにあがって、ラウンジのような部屋にかってしったる感じで
入っていく父。そこからは自分の住むマンションと大阪方面の景色が見えた。

あっちのほうは、まだここより大丈夫なんだろうか、と私は思った。
ここは、見捨てられた土地みたいだ、と。

もう前のように暮らしていくことなんてできない、と私は思った。

 

父は「よう見えるなー」といいながら、しばらく景色を見ていたが、
「元気出しや」と言った。

父が、私にそういうたぐいの言葉をかけるのは、初めてだった。
急いで父の横顔をみたが、父は「ほな、いこかー」と、マンションを降りた。

私はだまって父の後についていったが、
少しずつ足下の、足先の、指の先から、温かいものがじわじわとあがってくるのがわかった。

元気、ださな。と思った。

そこから、もう27年たった。
元気を取りもどせなかった人もいる。私みたいにくじけてないで被災したのにボランティアをがんばった人もいた。家族を失った人もたくさんいる。町は大きな痛手を負って、復興なんていまだってできてるのかわからない
その間に、つぎつぎといろんな不幸が世の中にはふってくる。

私たちは少しずつ元気になって、また明るく外に出られるようにもなったけど、

父はあの頃のように羽振りのよい暮らしではなくなって
私も父と一緒に暮らさなくなって、
家族みんなが、好きだったあの町を離れて、
バラバラになったり、またくっついたりして、
父は、年をとって、多分いろんなことにも疲れて、すっかり無口になってしまった。

でも、あのときに、父にもらった元気を、
私は頼りにして、これからも生きていくだろう。

1月17日が来るたびに、それを思い出す。生きている限りは。